あっけなし

 

5月4日。祖母が83歳で亡くなりました。

肺がんが脳に転移してもう余命宣告されていたので、少しずつ心の準備はしていたけど、やはり受け止めるのに時間がかかりました。

 

入院してから、お見舞いに行ったのはたったの1回だけ。もう長くはないと知っていたけど、1度お見舞いに行ったときにこれが最後かもしれないと思うと悲しくて悲しくて。泣きそうになって。でもばあちゃんの前で泣くのはだめだからと涙をこらえるのが辛くて。何度か地元には帰省していたけど、病院には行こうとしなかった。

いつも最後から逃げてしまうんです。もう長くないことなんてわかりきっていたし、行かないと絶対後悔することもわかっていたのに。何に意地を張っているのか自分でもよくわからない。本当は行きたいのに行けない。昔からそう。10年間通い続けた習字教室が店じまいする最後の日。先生とお別れすることが辛くて、サボった。その後違う習字教室に通って、そこでも6年くらい通ってやめる最後の時、先生にお別れの言葉とか沢山伝えたかったけど泣いてしまいそうで、さらっとしか言えずに帰ってきてしまった。4年間働いて就職を機にやめたバイト先でも、最後の出勤日に色々励ましてくれたけど、これが最後かって考えると悲しくて、泣いてしまいそうになったけど、泣きたくないから、ここでもあっさり挨拶しかできなかった。もういい加減逃げる事をやめたい。

これを機に少しずつ、逃げる事をやめていけたらなと思う。

 

物心ついてから身近な人の不幸ってなくて、死って身近なものだと思っていなかったけど、案外あっけないものなんだなと思った。目を閉じて身体はそこにあるのに意識がないって不思議で仕方ない。

そして亡くなってからの儀式は少し理解できない部分があったね。親戚が集まってお別れすることは良い事だと思うけど、お通夜とか告別式をする事だったり行くことが目的になってしまっているんじゃないかと思うところもある。だから無駄な作法的なものも必要ないと思う。それぞれがそれぞれの思うお別れをするべきなんじゃないかな。自分がやってもらう側になったとしたら、何もしてくれなくていいなと思ってしまった。お葬式をすることに必死になりすぎて悲しんでる場合じゃなくなってしまうから。もっと落ち着いてゆっくりお別れしてほしいです。そんな感じでお葬式にはちょっと疑問が多かった。田舎のやり方だったからからかもわからないけども。

 

 

ばあちゃんへ

小学、中学時代はばあちゃんちに行くことが正直あまり好きではありませんでした。ばあちゃんじいちゃんが嫌いとかいうわけじゃなくて、田舎のよさを知らなかったから。でも行ったらいつも盛大にもてなしてくれて。美味しいジンギスカンとおいしいすき焼き、たくさんのお菓子。お小遣いもたくさんくれて。いつもニコニコして優しくて。もう一人の方のばあちゃんが骨折したと言ったら、これで何か買ってお見舞いあげてと。財布に1万円くらいしかないのにその1万円全部くれたよね。交通手段がないから、お金をおろしに行くのも大変なのに。なのに他の人を思いやれる優しいばあちゃんのような女性になりたいです。本当にありがとう。天国でも安らかにお眠りください。

 

 

 

馬車馬ウイーク

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」

 

 

世間は10連休らしいですが、いかがお過ごしでしょうか?

サービス業に就いている方はさぞ大変でしょう、心中お察しします。

もちろん、わたしも犠牲者の一人でございますね。

仕事に明け暮れる10日間。(内休みは2日間)

 

周りの土日祝日休みの人を見てとてもうらやましく思う。

Instagramのストーリーには旅先の動画ばかり。

そりゃあどこかへ行くよね、だって10連休なんだもん。

 

私事でいいますと、gwは失敗の連続です。

久しぶりにこんなにミスが続いている。

その度に先輩が助けてくれる。

ありがとうございますとしか言えないことが悔しい。

先輩の役に立ちたいけど、できる事がないのもまた辛いものだ。

たまにお手伝いしたらジュースおごってくれて結局恩返しなんでできてない。

それが本当に悔しくて悔しくて。

働き始めて1年経ったのにできないことが多いというか、先輩に甘えている部分が多すぎて、1年前の自分と比べてできる事は確実に増えてはいるけど、想像していた1年たった自分とのギャップが大きすぎて(想像していた自分よりはるかに仕事が出来ていない)最近は毎日落ち込んでいます。尊敬している先輩たちは仕事がバリバリ出来ているから尚。でも、仕事中は真剣に落ち込む暇すら与えてくれないくらいにやることが山積みです。だからひたすら馬車馬のように働くだけ。こんなことでクヨクヨしてないでわたしはわたしなりに頑張るしかないんだけれどね。

 

あっ、答えが出た。

わたしはわたしなりに頑張って働きます。

支えてくれる人はたくさんいるんだから。

揉まれて揉まれて強くなりましょう。

 

 

という事で、わたしの10連休は、

「考える隙を与えないほど忙しく働いている」が正解でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

23年間

今週のお題「平成を振り返る」

 

 

平成で一番の出来事といえば、社会に出たこと。

 

 

ある程度物心づいたときからやりたい事なんてなかった自人生だった。

高校を選ぶ基準は制服がかわいいと聞くから。

そんなたやすい理由だったので、目指していた高校は学力がだんだん足りなくなっていって、受験前には結局、強い意志なんてないからその高校どころか、もっと下の高校を受験しなくてはならなくなった。

その高校は制服なんて可愛いどころかスラックス。それでもよかった。

 

高校では、やりたい事を見つけようと思いながら、赤点を取らない程度に勉強して、部活は一応やって、友達と遊んで、ただただ毎日を過ごしていた。

卒業後は栄養士になろうと思っていた。理由は母に勧められたから。地元に栄養科の短大があって、栄養士は母の目には良いものに映っていたんだろうね(栄養士がわるいものだと言っているわけではない)

そして、進路確定しなきゃいけなくなった時に思ったの。なんで栄養士目指すんだろう?って。生物も嫌い。計算も好きじゃない。特に料理するのも好きじゃない。わたしが今向かおうとしている先は自分の好きな事なんて何もないという事に気づいてしまった。

そして、当時好きだったことは、洋画、洋楽、海外ドラマ。この三点セットだった。勉強はしたくないけど、働くなんてもっとしたくない。どうしよう?そう思っときに出した答え。

英語関連の大学に行こう!

そして、やっと大学を調べ始めていきたい大学を見つけた。しかし、今ま栄養科の短大志望の教科選択だっため、選択科目に足りない部分を発見。一から自分で勉強しようか考えたけど、気づくのが遅すぎて諦め。少しレベルを落として英語の短大を目指すことにした。でもやはり働きたくないから大学行こうっていう弱い意志が志望動機だったため、勉強に精が出ません。家にいたら誘惑が多くて勉強なんてしないから、(当時韓国ドラマに激ハマりしていた)図書館に勉強しに行っていた。風邪もらってくるかもしれないから家で勉強した方がいいんじゃない?と母に言われつつも頑なに大丈夫と言い続け通い続ける。そして迎えた試験2日前。マイコプラズマ肺炎に感染。試験当日も高熱でもう必死の思いで受験しに行く。結果は全然ダメ。たぶん熱のせいではない。

そして結果はFラン大学へ。たぶん最初から結末はここだったんだろう。

英語をはなせるようになりたかったけど、勉強はしたくなかった。授業はちゃんと出て、提出物もちゃんと出していたから、勉強はできなくても成績は人一倍よかった。おかげで授業料半分免除。でも肝心の英語はもちろん話せるようにならなかった。

一人暮らしはしたかったけど、お金ははらいたくなかった。大学は地元を離れていたため、祖父母の家に住まわせてもらった。昔からじじばばっ子だったからいいかなと軽い気持ちで住み始めたのは良いものの、かほぼ過ぎて正直しんどかった。でも一人暮らしをするために奨学金を借りるくらいならそこに住んでる方がマシだった。

バイトも面接とか面倒すぎて友達に紹介してもらったところで約4年間働き続けた。何度か職を変えたいと思ったけど、求人探して電話して履歴書書いてっていうことが面倒で。それならここで働き続けようと思って結局人生の中でバイト経験はそこのひとつだけ。

大学以降はもう本当に働かなきゃいけないとわかっていた。でも相変わらずやりたい事なんて何もない。やりたい事が何もないというより、働く事が嫌すぎて何も考えたくなかった。だから職種で決めるというより条件で絞り込んで就活をした。土日祝日休み、転勤なし、市内勤務、給料はまあまあ。そんな都合のいい職場を探すことはできなかった。そしてなんだかよくわからないが、説明会でやりたいとかやりたくないとかじゃなくなんとなく「あ、わたしここで働くかも」って思った会社に採用してもらえた。そこの会社は条件としてはすべて当てはまっていなかったけど、もう妥協した。

そして去年の4月からやっと甘えてばかりの学生から社会人になった。一年たって思う事は、自分は社会人になって本当に成長できたと思う。今まではやりたくないことからはとことん逃げてきていたけど、今は自ら進んで。働くことに向いていないタイプの人間だと思っていたけど、違ったのかもしれない。職場の人にも恵まれたことが大きい。本当に日々支えられています。これからは自分も後輩を育てていかなくてはいけないのでそれのお手伝いができればなと。もちろん自分もまだまだ育ててもらうつもり。

 

そんな感じがわたしの平成

やりたい事なんてなくてもおかれた場所でそれなりに頑張れるようになりました。多分周りの人に恵まれていたから。令和もきっと変わらない。健康でちゃんと職についているのでそれはそれでいいんじゃないかな。

 

 

 

 

 

この先の普通の日

 

 

 

わたしはリトルトゥースです。

ラジオを聞き始めたきっかけは、

パンサー向井くんがかっこいいと思い始めて色々調べるうちに

彼がラジオを好んでいるという情報を仕入れ、

どんなものなんだろうかと思って聞き始めたのがきっかけです。

 

 

最初は向井くんのラジオを聞いていたんだけど、

あまりわたしの好みではなくて、、、。

 

結局、王道?のオールナイトとジャンクにたどり着いた。

オードリー、バナナマンおぎやはぎ、山ちゃんをとりあえず聞いた。

それでオードリーに丁度ハマったんだったかな。

 

向井くんを好きにならなければ、

ラジオとは無縁の関係だったと思うと本当ありがとう

そう、心から伝えたいです。

 

まだ聞き始めて1.2年しかたっていないけど、

もう毎日何かのラジオを聞かないとやっていけないくらいの

生粋のラジオっ子になってしまいました。

 

朝、仕事行く前の準備している間に聞く事が多いんだけど、

面白いラジオを聞けばわたしのテンションもあがるし、

まあまあだなっていう回はいつもと変わらずのテンションで。

わたしの気分は聞くラジオによって変わるといっても過言ではありません。

 

 

一番好きなのはオードリーのオールナイトニッポン

初めて聞き始めた時から毎週欠かさず聞いております。

 

そしてカスミンが!!!!!!!!!!!!!

ついに狙っている女を仕留めたようですね。

もうカスミンの口から狙ってる女ねっていう言葉を聞けないと思うと悲しいけど、

モニタリングでプロポーズの様子を見て感動。

 

ラジオ聞く前に、若ちゃんのエッセイ本を読んだりしてて、

すごくひねくれている部分を知り、共感できる部分もあり、

若ちゃんに引き込まれていった。

 

 

でも、いざラジオを聞き始めたら、カスミンも面白いのよこれがまた。

そんな感じでリトルトゥースになったんですが、

そんなカスミンもとうとう結婚ですね。

嬉しいような、悲しいような。

でも、若ちゃんにも嘘を貫き通し、10年も付き合った女性と結婚できて

本当に良かったと思いますね。

 

久しぶりにギャン泣きしてしまったものね。

わたしもカスミンみたいな漢と結婚したいものです。

 

 

 

そう思い、本日、人生で初めての合コンに行ってまいりました。

結果から言うと、まあ、フ―――――――――――ンって感じですかね。

飛び切り楽しいわけでも、詰まんないわけでもなく、

イケメンもいなければ、ブサイクもいない。

なんともいえない時間でございました。

 

ただ、これも経験として無駄な時間だったとは思っていないし、

また合コンがあれば参加したいですね。

結局会う人を増やさなければ輪も広がらないからね。

軽い気持ちで参加し続ければなとおもいます。

 

そしてわたしもいつか、カスミンみたいな漢と結婚できたらなと。

そんな事を思っておる次第でございました。

やさしい人

 

社会に出て二年目に突入しました。

一年目の時は日々の業務に追われ、なかなか余裕がなかった。

だから、誰かのことを気にかけたりする暇はなかったんだけど、

最近、ある程度落ち着いてきて余裕が生まれることが多くなった。

 

そしたら、いろんなことが見えてきた。

 

直近の先輩であり、一番迷惑をかけて一番救ってくれた人。

仮にその人をブラザーと呼ぶことにします。

 

 

最初の何をどうしていいのかわからなかったとき、

色々指示してくれたり、自分の一年目の時の話をしてくれたり、

失敗したときは、失敗しない人はいないんだからと励ましてもらい

入社当初から色々気にかけてくれていた。

 

すごくわかりやすく色々説明してくれたり、

一回聞いて全部理解できる人なんていないんだから

同じことでも何回でも聞いてね、50回までなら教えるからと

心強い事をいつも言ってくれたり、

うまく言った事を何度もほめてくれて、

今まであんまり自信のあるタイプじゃなかったけど、

ブラザーのおかげで自信が持てるようになったし、

本当にいい先輩に恵まれたなと思っていた。

 

 

そしてつい最近、新しく一つ上の先輩が異動になってきた。

その先輩もわたしと同じ業務に関わる方なので、

その業務の大変さとかをよくわかってくれる人。

でも月日も浅いし、あまり深く話したこともない感じだった。

 

わたしが連休に入ったとき、

わたしの代わりに入る人が仕事のできない人で

連休明けに仕事が山積みになっていた。

 

それを見てすかさず、

先輩に、自分暇なので手伝うよ、何したらいい?

って聞かれて衝撃。

 

仕事って一人でやるものじゃないんだって思った。

話こそかけてくれない人だったけど、

それってたぶんそういう性格なだけで、

実はとても人を想いやれる人なんだなと。

 

 

入社して一年がたって、

人のやさしさに気づく事ができるようになりました。

 

成長してる実感があまりなかったけど、

人のいいところを見つけることができる余裕ができたことも

少しは成長したってことなのかな。

 

そしてわたしも先輩という立場になったからには、

後輩にこの二人にしてもらってきたことを

受け継いでいこうと思います。

 

 

 

 

春を前に温かくなったエピソードでした。

 

 

一体何度目でしょうか?

 

私が初めてブログを書き始めたのはたぶん中学生。

小学校5年生の時にパソコンを買ってもらってから、

あてもなくネットサーフィンをしていたものだ。

ブログを始めたきっかけは何だったのだろうか?

 

それから月日が経ち、現在は23歳

ブログは数えきれないほど書いてきた。

誰に向けた文章でもなく、ただの日記のようなもの。

中学生の時は、前略プロフィールが流行った。

その波にもしっかり乗っていた。

今思うとなんのためにそんな事していたんだろうか。

リアルタイムというものも流行った。

自分の行動をリアルタイムでお届けするもの。

振り返ってみると中学生からしっかりSNSの時代を生きていたみたい。

それからTwitter、LINE、Instagram

すっかり現在はSNSが蔓延している。

 

私はつねに趣味がないと思っていた。

実際今もコレと胸を張って言えるような趣味はない。

でもなんだかんだで書く事が好きなんだと思った。

現に懲りずにブログを書き始めている。

それでいいんじゃないかな?

誰に読まれるわけでもないけど。

 

昔の自分のブログを検索してみた。

驚く事にまだ残っていた。

楽しかったこと、悲しかったこと、不安に思ったこと

今の自分からは想像できないくらい素直だった。

 

だからまた、みらいの自分にむけて書き始めようと思う。

さて、これを読んでいる自分は今何歳ですか?