23年間

今週のお題「平成を振り返る」

 

 

平成で一番の出来事といえば、社会に出たこと。

 

 

ある程度物心づいたときからやりたい事なんてなかった自人生だった。

高校を選ぶ基準は制服がかわいいと聞くから。

そんなたやすい理由だったので、目指していた高校は学力がだんだん足りなくなっていって、受験前には結局、強い意志なんてないからその高校どころか、もっと下の高校を受験しなくてはならなくなった。

その高校は制服なんて可愛いどころかスラックス。それでもよかった。

 

高校では、やりたい事を見つけようと思いながら、赤点を取らない程度に勉強して、部活は一応やって、友達と遊んで、ただただ毎日を過ごしていた。

卒業後は栄養士になろうと思っていた。理由は母に勧められたから。地元に栄養科の短大があって、栄養士は母の目には良いものに映っていたんだろうね(栄養士がわるいものだと言っているわけではない)

そして、進路確定しなきゃいけなくなった時に思ったの。なんで栄養士目指すんだろう?って。生物も嫌い。計算も好きじゃない。特に料理するのも好きじゃない。わたしが今向かおうとしている先は自分の好きな事なんて何もないという事に気づいてしまった。

そして、当時好きだったことは、洋画、洋楽、海外ドラマ。この三点セットだった。勉強はしたくないけど、働くなんてもっとしたくない。どうしよう?そう思っときに出した答え。

英語関連の大学に行こう!

そして、やっと大学を調べ始めていきたい大学を見つけた。しかし、今ま栄養科の短大志望の教科選択だっため、選択科目に足りない部分を発見。一から自分で勉強しようか考えたけど、気づくのが遅すぎて諦め。少しレベルを落として英語の短大を目指すことにした。でもやはり働きたくないから大学行こうっていう弱い意志が志望動機だったため、勉強に精が出ません。家にいたら誘惑が多くて勉強なんてしないから、(当時韓国ドラマに激ハマりしていた)図書館に勉強しに行っていた。風邪もらってくるかもしれないから家で勉強した方がいいんじゃない?と母に言われつつも頑なに大丈夫と言い続け通い続ける。そして迎えた試験2日前。マイコプラズマ肺炎に感染。試験当日も高熱でもう必死の思いで受験しに行く。結果は全然ダメ。たぶん熱のせいではない。

そして結果はFラン大学へ。たぶん最初から結末はここだったんだろう。

英語をはなせるようになりたかったけど、勉強はしたくなかった。授業はちゃんと出て、提出物もちゃんと出していたから、勉強はできなくても成績は人一倍よかった。おかげで授業料半分免除。でも肝心の英語はもちろん話せるようにならなかった。

一人暮らしはしたかったけど、お金ははらいたくなかった。大学は地元を離れていたため、祖父母の家に住まわせてもらった。昔からじじばばっ子だったからいいかなと軽い気持ちで住み始めたのは良いものの、かほぼ過ぎて正直しんどかった。でも一人暮らしをするために奨学金を借りるくらいならそこに住んでる方がマシだった。

バイトも面接とか面倒すぎて友達に紹介してもらったところで約4年間働き続けた。何度か職を変えたいと思ったけど、求人探して電話して履歴書書いてっていうことが面倒で。それならここで働き続けようと思って結局人生の中でバイト経験はそこのひとつだけ。

大学以降はもう本当に働かなきゃいけないとわかっていた。でも相変わらずやりたい事なんて何もない。やりたい事が何もないというより、働く事が嫌すぎて何も考えたくなかった。だから職種で決めるというより条件で絞り込んで就活をした。土日祝日休み、転勤なし、市内勤務、給料はまあまあ。そんな都合のいい職場を探すことはできなかった。そしてなんだかよくわからないが、説明会でやりたいとかやりたくないとかじゃなくなんとなく「あ、わたしここで働くかも」って思った会社に採用してもらえた。そこの会社は条件としてはすべて当てはまっていなかったけど、もう妥協した。

そして去年の4月からやっと甘えてばかりの学生から社会人になった。一年たって思う事は、自分は社会人になって本当に成長できたと思う。今まではやりたくないことからはとことん逃げてきていたけど、今は自ら進んで。働くことに向いていないタイプの人間だと思っていたけど、違ったのかもしれない。職場の人にも恵まれたことが大きい。本当に日々支えられています。これからは自分も後輩を育てていかなくてはいけないのでそれのお手伝いができればなと。もちろん自分もまだまだ育ててもらうつもり。

 

そんな感じがわたしの平成

やりたい事なんてなくてもおかれた場所でそれなりに頑張れるようになりました。多分周りの人に恵まれていたから。令和もきっと変わらない。健康でちゃんと職についているのでそれはそれでいいんじゃないかな。